読書のものさし

おもに九州に縁のある作家や作品を紹介する書評ブログ

【徹底比較!】 あなたはどれが好み? カフカ『変身』の訳文を読み比べてみた!

20世紀最大の作家の1人に数えられるフランツ・カフカ

 

『変身』は、多くの出版社から刊行されており、訳者ごとにどんな違いがあるか、興味がある方は多いかもしれません。

 

そこで、3つの出版社から刊行された『変身』の訳文を読み比べ、それがどのように違うかを探っていきたいと思います。

 

 

1.古典作品は訳者ごとにどんな違いがあるか気になる!

 

翻訳者の方が、海外小説を日本語訳した際の裏話は、ときに作中の語句を引用しながら、その考察や訳し方の注意点に触れたものまであり、読者としても参考になります。

 

しかしながら、外国語に精通していない私などには、日本語に移植する際のことばの正確性や作者の文体の再現性などは、それほど気にならないのも事実です。

 

というのも、海外小説を読む場合は、ある程度、翻訳者の方を信頼しているとともに、翻訳には誤訳がつきものであり、日本語に移植する際の翻訳の限界を見越して、本を読んでいるからです。

 

だから、誤訳を指摘するような文章を目にしても、「へえ、そんなもんか」と思う程度で、翻訳者の方への信頼が揺らぐほどの決定的な瑕疵にはなりなせん。というか、私はそもそも外国語が読めないので……w

 

むしろ私が翻訳で気になるのは、複数の出版社から刊行されている古典作品の場合です。それぞれの訳者によってどんな違いがあるか、どんな日本語に訳されているか、そちらの方が気になります。

 

それぞれの特徴や違いを知ることで、本を選ぶ際の基準になるからです。そこで複数の出版社から刊行されている、訳文の違いを比較するには絶好の素材、カフカの『変身』に注目しました。

 

この記事では、3つの出版社から刊行されている文庫本の『変身』の読み比べを行い、日本語から読みとれる印象やニュアンスの違いから、どのような違いが見えてくるかを読みとっていきます。

  

2.『変身』の概要について 

 

辞書

 

カフカの『変身』は、1915年に雑誌に発表された中編小説です。カフカの生前に発表された数少ない作品のひとつで、そのいっぷう変わった物語は、不条理小説ともいわれています。

 
原書で出版されたカフカ全集』には3つのタイプがあり、なかでも、新潮文庫・角川文庫・岩波文庫が底本にするものが、カフカの友人の手によって刊行された「ブロート版カフカ全集」と思われます。

 

(原書の『ブロード版カフカ全集』が刊行された年を参考に、日本で文庫が刊行された年や、訳者の解説、あとがきの内容などから総合的に判断した)

 

全集を編集する過程で、異同があったとは思えませんが、あくまで正確を期すために、友人の手によって刊行された『ブロート版カフカ全集』を底本にした(と思われる)、3つの出版社の文庫本を取りあげます。

 

比較する範囲は、小説を読んでない方に配慮して第1章のみをとりあげます。ただし、かなり内容に踏み込んで考察しているので、読な方はくれぐれもご注意ください。それでは、訳された年代の古い順に見ていきましょう。 

 

3. 場面の状況が理解しやすく、日本語の格調が高い新潮文庫『変身』高橋義孝

 

はじめに新潮文庫高橋義孝訳をとりあげます。高橋訳は、戦後に文庫として出版された『変身』のなかで、第1訳業にあたるパイオニア的な存在です。新潮文庫の旧版は1952年に刊行されました。

 

 

高橋訳の良さは、翻訳された時代がもっとも古く、場面によってはやや硬い表現が見受けられますが、場面の状況が理解しやすい、日本語の格調の高さにあるいえます。ポイント別に見ていきましょう

 

3-1 冒頭の印象について

 

物語に読者をどう惹き込むかが重要になる小説の冒頭部。高橋訳はどう訳しているのでしょうか。より理解しやすいように、角川文庫・中井訳とならべて比較してみましょう。

 

新潮文庫・高橋訳

ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。 (p5)

 

角川文庫・中井訳

ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベットのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。(p6)

 

高橋訳が他の訳と異なるひとつに、主人公の名前があげられます。ズバリ、「グレーゴル」です。これは高橋訳だけに採用されている名で、ややゴツっとした語感がともないます。角川文庫・中井訳の「グレゴール」と比べると、その響きの違いが分かるはずです。

  

また高橋訳は、文末を「発見した」としており、角川文庫・岩波文庫の2人の訳者が「気がついた」とする訳と比較すると、ザムザが未知の出来事にあった際の事態の大きさが、より強調された訳になっています。

 

後に触れますが、ザムザが変身した姿を「虫」とするところにも違いが見られます。高橋訳の冒頭部は、他の訳文と比べると個性的といえそうです。

 

3-2 人物の印象について

 

床

 

高橋訳は、先ほど日本語の格調の高さと、やや硬い表現に特徴があると書きました。これは表裏の関係にあります。以下に引用する文章は、家族や関係者が、ザムザの異変に気づき、応援を呼ぼうとした際の、彼の反応を描いた場面です。

 

新潮文庫・高橋訳

最初の処置がとられたさいの確信着実さとに彼は気をよくした。これでまたふたたび人間世界に結びつけられたという気持ちになり、両者つまり医者と錠前屋とから、ぼんやりこのふたつのものをひとつに考えながら、大がかりで驚異的な成果を期待した。(p27)

 

岩波文庫・山下訳

断固としてなされた最初の指図が、彼には心地よかった。これでまた人間の仲間に加えられたという気がして、医者と錠前屋から、両者のどちらでもいいのだが、驚くほどすばらしい成果を期待した。(p27) 

 

いかがでしょうか。高橋訳からは、ザムザの緊迫した気持ちと、日本語の格調の高さを感じさせる反面、やや言い回しが硬いようにも感じられませんか。

 

いっぽう岩波文庫・山下訳は、誇張された箇所をのぞき、スムーズに読みつげる、フラットな日本語で訳されているように感じます。もうひとつ引用しましょう。

 

新潮文庫・高橋訳

ところで玄関の間で彼は階段のほうに向かって思いきり右手を伸ばした。階段のところには、まさに超地上的な救済が彼を待ちもうけているとでもいったふうであった。(p33)

 

岩波文庫・山下訳

そして玄関ホールに入ると部長は、さながらそちらで天の救いが自分を待ちうけているかのように、外の階段室の方へ右手をおもいきり差しのべた。(p33)

 

「地上的な救済」「天の救い」。それぞれの訳し方の違いが見てとれます。後に詳しくみますが、高橋訳のザムザは、自らのことを「おれ」と呼んでいることも印象的です。

 

そのせいか、角川文庫・中井訳と比較すると、ザムザは違った人物のように感じられます。つぎの文章を比べてください。

 

新潮文庫・高橋訳

また目ざましが時を打った。「もう七時だ」と彼はつぶやいた。「もう七時だ、それなのにまだこの霧だ」(p15)

 

角川文庫・中井訳

「――もう七時なのか」と、ちょうど目覚まし時計があらたに鳴ったので、彼はひとりごとを言った。「七時になってもまだ、あんな濃い霧がかかってるのかな……」(p15)

 

角川文庫・中井訳のザムザは、語尾に付くことばの印象から、根が優しい人柄の良さを感じさせますが、高橋訳のザムザは、都会風のクールな人物を思わせます。

 

まるで往年のフランス映画の主人公のようです。日本語の格調の高さが、語り手の口調とザムザの人物像に影響を与えているように感じられるのです。

 

3-3 文の印象について

 

高橋訳が、場面の状況が理解しやすい理由のひとつに、訳文をどう配置するかという順序が関係しています。つぎの一節は、巨大な虫に変身したザムザの部屋へ、妹が食事を運んできた場面です。

 

新潮文庫・高橋訳

それから急いで部屋を出て行き、あまつさえ外から部屋に鍵をかけた。これはグレーゴルが妹の前では恥ずかしがって食べられないだろうと察しての思いやりからであり、鍵をかけたのは、人に見られずに気楽に食事できるということをグレーゴルにぜひわかってもらいたいからのことであった。(p46)

 

角川文庫・中井訳 

グレゴールは、自分のいる目の前では食べにくがるだろう、というやさしい思いやりから妹は急いでその場をはなれ、グレゴールが気楽にしたいほうだいにふるまっていいのをわからせるために、わざとドアに外から鍵をかけた。(p46)

 

新潮文庫・高橋訳では、妹が部屋を出た行動が示されたあと、彼女が部屋を出た理由が説明されています。高橋訳ではこうした書き方が多用されており、場面の状況がわかりやい分、やや説明的に感じられないでしょうか。

 

角川文庫・中井訳のように、他の訳文では、妹の行動と理由が一節にセットでおさめられています。文を組み立てる順序からも、読み手が受ける印象は違って感じられるのです。

 

ところどころ時代がかった語句が散見されますが、1952年に訳された事実をあわせ考えると、それほど古さを感じさせません。高橋訳は、もっともスタンダードな『変身』訳といえるでしょう。 

🔍中井訳のまとめ

日本語の格調の高さに特徴があり、場面の状況が理解しやすい!

 

4. 人物の個性や内面が豊かに感じられる、角川文庫『変身』中井正文

 

つぎに角川文庫の中井正文訳です。中井訳は新潮文庫・高橋訳につづき、2番目の訳業にあたります。旧版は1952年に刊行されましたが、1968年に改訳されました。

 

 

中井訳の良さは、やや古めかしい言い回しが見られるいっぽうで、人物たちの個性や内面がいきいきと伝わってくるところにあります。ポイントをふまえながら、内容を見ていきましょう。

 

4-1 冒頭の印象について

 

中井訳は冒頭部をこう訳しています。主人公の名前に注目しながら読んでください。新潮文庫・高橋訳では、主人公の名は「グレーゴル」と訳されていました。

 

角川文庫・中井訳

ある朝、グレゴール・ザムザが不安なからふと覚めてみると、ベットのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。(p6)

 

岩波文庫・山下訳

グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。(p7)

 

主人公の名はグレゴール・ザムザ」となり、これは岩波文庫・山下訳と共通します。語感の響きが心地よい名です。またザムザが変身した姿を「大きな毒虫」、文末を気がついたと訳すところも同じです。

 

新潮文庫・高橋訳では「大きな虫」とされていたところです。大きな「毒虫」と、巨大な「虫」。毒虫はイメージされる対象が限定されるのに対し、虫はより抽象的なイメージとして、読者に喚起されるのではないでしょうか。

 

こう見ると、角川文庫・中井訳と岩波文庫・山下訳の冒頭部は、同じグループに属するといえそうです。ただし中井訳は、「ふと」という語句が挿入されることで、巨大な毒虫に変身した事実が、朝の何気ない出来事のひとつとして、捉えられています。

 

4-2 人物の印象について

 

鏡

 

中井訳が他の訳文ともっとも異なるのが、作中から受ける人物の印象です。『変身』の第1章は、ザムザの独白が、地の文と混ざりあうところに違いが表れてきます。つぎに引用する文章も、そのひとつです。

 

こんな場合、非はまったく自分のほうにあるのかな。(p10)

 

先にも触れたように、中井訳はザムザの独白の語尾に「かな」とつくのです。その語尾のニュアンスによって、各場面は、彼の幼さ、家族へのいたわり、虫に変身したことの不安などが、浮かびあがる訳になっています。

 

ここにザムザが自らを「おれ」と呼ぶ、新潮文庫・高橋訳との違いが見てとれます。

 

角川文庫・中井訳

ところで、そんな真似をしたらお店で自分がやらかそうものなら、即刻馘になってしまうだろう。(p8)

 

新潮文庫・高橋訳

このおれが、そんなことでもしようものなら、社長はいきなりおれを首にしてしまうだろう。(p8)

 

主人公の口調だけではありません。「グレゴール……」という母親のセリフ、「どう返事したもんか、わしらにゃわからんでな」といった父のセリフからは、一家の家計をザムザに託さなければならない、両親の老いや育った土地をも感じさせるようです。

 

中井訳は、登場人物の性格や内面がより豊かに伝わる訳といえそうです

 

 

4-3 文の印象について

 

冒頭から巨大な虫に変身しまうザムザ。あまりの唐突な展開に笑ってしまった方もいるかもしれません。実際、カフカは『変身』を笑いながら友人たちに朗読したといわれます。

 

そう、この小説は笑える要素を含んだ内容でもあるのです。中井訳では、ザムザが虫に変身したことで、周囲の人間が慌てふためく場の雰囲気が、上手くとらえられています。以下に引用する文章は、ザムザが家族や支配人の前にすがたを現した場面です。

 

角川文庫・中井訳

ようやく玄関の控え室までひきさがると、とつぜんからだをひるがえして、たったいま足のうらに火がついたような慌てかたで居間から最後の一足を引っこぬき、もう控え室へとびこんでいた。(p34)

 

新潮文庫・高橋訳

そうやって彼はついに玄関の間に行きついた。最後に彼が一方の足を茶の間から引きぬいた目にもとまらぬ運動を見た者は、彼がそのとき踵を火傷したといった感じを受けたといってもむりはあるまい。(p33)

 

文中の彼とは支配人のことを指しています。中井訳は「足のうらに火がついたような慌てかた」「最後の一足を引っこぬき」といった表現が、ユーモラスに感じられ、混乱する場の雰囲気をうまくとらえているように感じます

 

角川文庫・中井訳が1968年に改訳されたこともあり、やや文章のリズムが滞りがちで、現代から見ると、あまり聞きなれない言い回しも散見されます。これは新潮文庫・高橋訳とともに、翻訳の宿命といえるでしょう。

  

ベットの中なんかでいくら頭をはたらかしたところで、上分別など湧きそうもない気がしたからだ。(p13)

 

見本はまだ包んでなかったし、ご本尊も活発に動きまわりたい気がちっとも起こらないというわけなのだ。(p10)

 

ちなみに「ご本尊」とは、ザムザを示しています。また新潮文庫・高橋訳では、アーモンドのことを「巴旦杏(ハタンキュウ)」と訳されていました。これはさすがに、現在の読者にはわかりにくいでしょう。

 

この他にも、中井訳はザムザの職業をセールスマンとしていますが、彼がいったいどんな仕事をいているか、他の訳文と比較すると、ややイメージしにくいかもしれません。

 

しかしながら、場面の雰囲気や人物たちの内面が非常に豊かで、小説のおもしろさが充分に伝わってくる訳といえます。

 

🔍中井訳のまとめ

人物たちの個性や内面、場面の雰囲気ががいきいきと伝わってくる!

 

5. 親しみやすく読みやすい、岩波文庫『変身』山下肇・山下萬里訳

 

さいごに岩波文庫山下肇・山下萬里訳です。山下訳は1958年に出版されており、新潮・角川につづく第3訳業になりますが、2004年に改訳されたので、3つの訳のなかで、もっとも新しいものです。

 

 

山下訳の良さは、日本語の言い回しに違和感がなく、現代の読者にもなじみやすい訳になっているところです。文章の流れもスムーズで大変読みやすい。各ポイントを見ていきましょう。

 

5-1 冒頭の印象について

 

山下訳は、角川文庫・中井訳と同じく、ザムザの名を「グレゴール」、また彼が変身した姿を「毒虫」と訳しています。

 

グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。(p7)

  

いっぽうで、文末を「気がついた」とする部分は角川文庫・中井訳と同じですが、山下訳が異なるのは、「夢がつづいて」という箇所です。

 

この部分について、訳者はあとがきで、原文が複数の「夢」を意味することばが使われていることから、このように訳したと語っています。

 

つまりザムザは、ひとつの「夢」を見ていたのではなく、不吉な「夢」をつづけて見ていたことになります。つまり夢を見た時間の長さが意識されています。

 

「ひとつの夢」または「複数の夢」冒頭の細部からも、訳者のことばの違いが見てとれます。

 

5-2 人物の印象について

 

人物


山下訳は、文のリズムや登場人物たちの言い回しなども、違和感のない日本語で訳されています。角川文庫・中井訳の箇所でふれた、ザムザの父のセリフを読み比べてみます。

 

角川文庫・中井訳

支配人さんがお越しくださってな、おまえがどうして早い朝の汽車で出勤しなかったか、きいてらっしゃるぞ。どうご返事したもんか、わしらにゃわからんでな。(p19)

 

岩波文庫・山下訳

部長さんがおいで下さって、どうして朝のおまえが朝の列車で発たなかったのかとお訊ねだぞ。私らには、どう申しあげたらよいのかわからん。(p20)

 

山下訳は、クセのないセリフ回しになっています。ただし、日本語として読みやすい分、角川版のセリフから感じとれる、人物の個性や内面が抑えられているともいえます。

 

この親しみやすさは、登場人物たちの役職についても同じです。ザムザの職業は、新潮訳では「外交販売員」でしたが、岩波訳では「外まわりの営業マン」と訳されています。

 

またザムザの雇い主を「社長」、家に押しかけてくる人物を部長とするなど作中の人物たちには肩書きがついてまわります。山下訳のザムザは、会社組織の一員としての立場がひどく意識されているのです。

 

5-3 文の印象について

 

読者になじみやすい訳となっている山下訳。格調の高い日本語訳の、新潮文庫・高橋訳と比べると、その違いがより明らかになります。以下に比較してみましょう。

 

岩波文庫・山下訳

何の罪もない家族全員に見せつける必要があるのだろうか。(p19)

 

新潮文庫・高橋訳

罪科もない家族全部に告げ知らされなければならないのか。(p18)

 

新潮文庫・高橋訳に見られる、やや硬い言い回しが、山下訳では、何の罪もない見せつけるといった、分かりやすいことばで訳されています。

 

ただし、すべての箇所がそうではありません。以下に引用する場面は、部屋に閉じこもったザムザを心配して、妹がすすり泣きをはじめ、その声を彼が耳にしたくだりです。

 

岩波文庫・山下訳

さては今しがたベットから起きたばかりで、まだ着がえようともしてなかったんだな。それにしても、いったいなぜ泣くのだろうグレゴールが起きないし、部長を中へ入れないからだろうか、(p22)

 

角川文庫・中井訳

なぜ妹のやつは皆のいるところへ行かなかったのだろう。さては、たったいまベットから起きだしたばかりで、まだ着物も着かえていないんだな。だが、どうして妹のやつは泣きだしたんだろう。自分が起きあがらないで、支配人を中へ入れてやらないからかな。(p22)

 

「グレゴール」の箇所を、新潮文庫・高橋訳は「おれ」と訳しています。この箇所はザムザの独白にもかかわらず、彼が自らを指してグレゴールと呼ぶ、ねじれた文章になっています……と、ここまで書いて、念のために、光文社古典新訳文庫訳文と比較してみました。

 

光文社古典新訳文庫・丘沢静也訳

なぜ妹はみんなのところに行かないのか。たぶんたったいまベットから起きあがったばかりで、まだ着がえてもいないのだろう。ではなぜ泣いているのかグレーゴルが起きだしてこず、マネージャーを部屋に入れないからだろうか。(p46)

 

光文社古典文庫・丘沢訳でも、グレーゴル」と表記されていました。後続の文章も、グレゴールと連続して表記された事実を考えあわせると、このくだりは、おそらく主人公の内面に寄り添って、語り手が述べる連なりになると、訳者が判断したのでしょう。

 

ということは、グレゴールと表記されたひとつ前の太字にした箇所から、話者が語り手に切り替わっているように考えられます。

 

岩波文庫・山下訳では、グレゴールが発することばの語尾にニュアンスがつき、つづけて話者の語りが始まるので、ともすると、この箇所は、ザムザの内面の独白のように読めてしまう、誤解を生みやすい場面になっています。

 

ともあれ、3つの文庫本のなかで、もっとも新しい訳ということもあり、現代の読者にとっては、大変になじみやすい訳であることは間違いないでしょう。

 

🔍山下訳のまとめ

親しみやすく読みやすい、クセのない日本語で訳されている!

 

6.まとめ

以上、3つの訳文を見てきました。それぞれの訳の特長をまとめると、つぎのようになります。

 

新潮文庫・高橋訳は、都会風のクールな若者を主人公にした、場面の状況が理解しやすく、日本語の格調の高さに特長がある。

 

角川文庫・中井訳は、根の優しい若者を主人公にした、人物や場面の雰囲気がより感じられる点に特長がある。

 

岩波文庫・山下訳は、3つの訳でもっとも新しく、クセのない親しみやすく読みやすい訳文に特長がある。

 

いかがでしたか。この記事を参考に、ぜひ好みの文庫本を手にとってください。

 

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました !

【名著】神の存在意義を問う衝撃作!遠藤周作『沈黙』のレビュー

夕日

 

今回読んだ本は、遠藤周作『沈黙』。

 文庫本にして300ページ近くにのぼる歴史小説です。

 

禁教令を布く江戸時代の日本で、ポルトガルから来航した神父が、

棄教か殉教かの二者択一を迫られる、その心理を描きます。

 

2017年には、マーティン・スコセッシ監督が

『沈黙 サイレンス』として映画化しています。

 

300ページの本とは思えない読後感が胸にのしかかります。

なお本書は舞台が長崎ということから、九州の本として扱います。

 

🔻遠藤周作のプロフィール

 

遠藤周作は、1923年東京で生まれた小説家です。幼少時は満州で過ごし、日本に戻った後、12歳でカトリックの洗礼を受けます。慶応義塾大学文学部仏文科卒業後、フランスに留学。しかし肺病に罹り、約2年半後に帰国します。帰国後、本格的に作家としての活動をはじめる。

 

1955年に発表した『白い人』で芥川賞受賞。57年『海と毒薬』で新潮社文学賞、毎日出版文化賞を受賞。95年文化勲章。代表作に『沈黙』『海と毒薬』のほか、『イエスの生涯』『深い河』など。日本とキリスト教との関係を生涯にわたり追及しました。そのほか、歴史小説やユーモア風の小説も残しました。

 

🔻『沈黙』の内容

 

ローマ教会にある報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣したクリストヴァン・フェレイラ教父が、長崎で拷問を受け、棄教を誓ったというのである。その報せは、驚きをもって本国に伝えられた。

 

当時の日本は、異教徒に対して棄教や転宗を迫り、過酷な弾圧政策が布かれていた。フェレイラ神父は20年来、日本で布教活動を続けてきた、信仰心に篤く、人望を集めていた、熱心なキリスト教徒だった。 

長崎の地図

 

ローマ教会が対応に追われるなか、その報せを同じように受けとめる人々がいた。ポルトガル・リスボンの若い司祭、ガルペ、マルタ、ロドリゴの三人である。彼らは修道院時代に、フェレイラ神父のもとで教義を学んだ師の教え子たちだった。

 

その人となりを知る彼らは、フェレイラ神父が異教徒の前で棄教した事実を信じることはできなかった。三人は、棄教の真実とその消息を探るため、ゴア、マカオ経由で、日本への密航を企てる。

 

最後の寄港地、マカオにたどり着いたロドリゴらは、ヴァリニャーノ神父から、日本の信徒たちの現状を聞かされる。そこで新しく宗門奉行に任命された井上筑後守が、フェレイラ神父を訊問したことを知り、ついに日本への渡航を試みるのだが……

 

🔻『沈黙』の感想

 

禁教令が布かれた日本で、キリスト教徒たちは、時の権力者から、棄教や拷問をしいられ、過酷な弾圧を加えられています。信徒たちが迫害される状況を見るにつけ、ロドリゴには、ある疑念がもちあがります。

 

信徒たちがいくら神を奉じ、祈りを捧げようと、犠牲者はいっこうに減らず、神はいつも沈黙したままだからです。ロドリゴは、そんな神の姿勢に疑問を抱きます。多くの信徒たちが信仰を捨てず、無残に命を落としていくなかで、なぜ主は黙ったままのか、と。本書は、この「神の沈黙」をテーマにしています

 

渡航前、ロドリゴにとって、神は憧憬の対象にしかすぎませんでした。ところが、彼は日本における信徒たちの現状を認めるにつけ、その気持ちに変化が生じます。司祭としての信念や責務を離れ、一個人として神と向き合うことで、その存在がより内面に深く根差していくからです。

 

この小説は、終始、ドラスティックな緊張感にみたされています。同時に、迫害される信徒を前にして、司祭が酷な判断を迫られるところが、小説にドラマチック効果も生んでいます。300ページの小説とは思えない、大長編を読んだ後のような、ずっしりと重い読後感におそわれます。

 

🔽日本とキリスト教との関係について考えさせられる名著

 

大学時代、キリスト教の講義を担当した教授が、『沈黙』を勧めていたのを覚えています。以来、本書がずっと記憶の隅にひっかかっていました。十数年の時を隔て、ようやく手にとりましたが、そのことば通り、圧倒的な本でした。絶望の淵に立たされた司祭の心理が丁寧に描かれており、胸を深く抉られます。

 

本書では「神の沈黙」を、しばしば長崎の海に重ねて描きます。これまで何度も長崎で海を目にしてきましたが、本書を通すと、また違った風景として立ち上がってくるかのようです。胸をふさぐような重い内容ですが、日本とキリスト教との関係について考えさせられる、名著です。 

 

(こっそりランキングに参加中です) 

今を思いっきり楽しみたい! 若者の不変的な心理を描く、極上のエンタメ小説・村上龍『69 sixty nine』

リンゴ


今回読んだ本は、村上龍『69 sixty nine』です

1960年代後半の、作者の実体験がもとになった、

文庫本にして220ページ近くにのぼる青春小説です。 

 

私が初めて読んだのは、作中の登場人物と同じ、十代の頃にさかのぼります。

当時はモヤッとした印象が残りましたが、今回は違った印象を抱きました。

 

この小説のおもしろさは、今を楽しく生きたいという、

若者の不変的な気持ちを描いた点にあると思ったのです。

 

 

🔻村上龍のプロフィール

 

村上龍は、1952年に長崎県佐世保市に生まれた作家。76年、武蔵野美術大学在学中に発表した『限りなく透明に近いブルー』で鮮烈デビュー。そのスキャンダラスな小説は、たちまちベストセラーとなり、群像新人賞と芥川賞を同時受賞を果たす。24歳4ヶ月という、当時としては異例の早さでの受賞(最年少受賞者ではない)となった。 

 

長崎の地図


81年『コインロッカーベイブス』で野間文芸新人賞。97年『イン ザ・ミソスープ』で読売文学賞。2000年『共生中』で谷崎潤一郎賞など、他多数。また自作の小説を映画化する際には監督も務めた。金融・政治・経済など、メディアで積極的に発言する、現代を代表する作家のひとり。

 

🔻『69 sixty nine』の内容

 

1969年、世界は混乱のさなかにあった。国内では学生運動の騒乱により、東京大学は入学試験を中止し、各地ではベトナム戦争の抗議活動が行われていた。主人公の矢崎剣介は、九州の西端、米軍基地のある佐世保市内に住む高校3年生。

 

好奇心が旺盛で、流行に敏感な素行不良の学生だ。彼はある日、新聞部に属する岩瀬と、炭鉱町出身のアダマこと山田正に、ある計画をぶちまける。それは、音楽、演劇、映画を同時に上演する、いまだ誰も試みたことのない、フェスティバルを開催することだった。

 

映画を制作するにあたり、矢崎は同じ高校に通う、”小鹿のバンビ”こと、松井和子を主演に据えることを決める。出演の快諾をもらおうと、彼女が所属する演劇部を訪れる矢崎だったが、教師に門前払いをくい失敗に終わる。いきり立った彼は、彼女の気をひこうと、学校の屋上をバリゲード封鎖する計画を立てるのだが……。 

 

🔻『69 sixty nine』の感想

 

『69 sixty nine』は、作者の高校時代の実体験が小説化されたものです。当時の社会時勢を背景にして、若者の鬱屈したエネルギーが、一気に爆発する爽快さにあふれています。いまを楽しみたいという、若者の衝動が真っすぐ読者に伝わってきます。ところでこの小説は、60年代末におくった思春期を、語り手がふりかえる回想形式で綴られています。

 

 🔽若者の不変的な心理を描く『69 sixty nine』

 

ご存知の通り、60年代末から70年にかけては、学生運動が繰り広げられた政治の季節にあたります。一時、異様なうねりをみせた政治運動は、結局、学生側の敗北で決着をみます。この時代に思春期を過ごした作家にとって、学生運動の時代のとらえかたは、人によってさまざまです。

 

ある者は自分探しの物語として当時を回想し、ある者は多くを語らず、暗に含ませるような語り方で小説を書き続け、ある者は、その深い傷から失語症にかかり、新たな小説の形式を準備して文壇にデビューを果たします。一部の例外をのぞき、いずれの作家も暗い記憶として胸に刻まれた出来事でした。

 

この小説は、そうした暗い痕跡など微塵も感じさせません。その行動原理は至極明快です。理屈や建前で動くのではなく、女の子にもてたい! 誰よりも目立ちたい! といった欲や衝動が、彼らを駆りたてるのです。何と清々しい理由でしょう。

 

それが一群の作品と一線を画す理由であり、同時に、現代の読者に受け入れられる要因にもなっています。この小説が現代でもおもしろいと感じるのは、今を楽しみたい!という、いつの時代も変わらない、若者の不変的な心理に支えられているからでしょう。

 

🔻溌剌としたエネルギーにあふれた極上のエンタメ小説

 

笑えるポイントも用意されています。自己中心的で、イマジネーション豊かな主人公・矢崎と、沈着冷静で実務派のアダマとのかけ合い。また若者たちからもれる九州弁が、会話の内容にそぐわず、ほどよいギャップが生じて、地方の田舎青年らしさを醸し出しています。

 

と、細かい点をあげればキリがありませんが、『69 sixty nine』は、若者の溌剌としたエネルギーがあふれた極上のエンタメ小説です。いちど読んだ方も、再読してみてください。当初に読んだ印象と、また違った感想を抱くかもしれませんよ。 

 

 

(こっそりランキングに参加中です) 

アンネの足跡をたどる旅  ~小川洋子『アンネ・フランクの記憶』を読んで~

波止場

 

今回読んだ本は、小川洋子『アンネ・フランクの記憶』

アンネの足跡を追って、1週間にわたりヨーロッパをまわる旅の記録です。

 

アンネの著作を読んでない方でも、

充分に理解が深められる内容になっています。

 

同時にこの旅は、アンネに影響を受けた

作者自身の魂の源流をたどる旅でもあります。

 

歴史的な災禍を前にして、

ひとりの人間の死を見つめようとする

作者の真摯な姿勢が印象的でした。 

 

🔻『アンネ・フランクの記憶』の内容

 

本書はアンネ・フランクの足跡をもとめて、作者がヨーロッパをめぐった一週間の旅の記録です。 旅でめぐる場所は、フランク一家が身を潜めた隠れ家、アンネが通った学校、生前の彼女を知る友人など、アムステルダム、フランクフルト、ポーランド、ウィーンの、ヨーロッパ各国にまたがっています。

 

アンネと聞くと、私などはナチス・ドイツの犠牲になった不幸なシンボルとしてイメージしがちですが、作者は旅の目的があくまで、ひとりの少女の死を考えることにあるといいます。歴史の内側からアンネをとらえるのではなく、ごく親しい友人の心の内にふれるように、アンネの死の意味を考えたいというのです。

 

 🔽小川洋子にとって、アンネ・フランクとは?

 

作者が『アンネの日記』と出合ったのは、中学一年生の時までさかのぼります。その読書体験は、作者にとって決定的な影響をおよぼしました。十代の少女の、胸にわだかまっていた思いが、アンネの言葉によって明確にかたちを与えられたからです。

 

人間の気持ちをこれほど自由に表現できることに驚いた作者は、アンネに影響されて日記を付け始めます。その日記は、やがて小説の一部へと発展し、後年、作者の創作の原点として認識するようになります。以来、アンネの存在は、作者にとって特別な位置を示めるに至ったのです。

 

この本は、アンネの足跡を訪ねる旅であると同時に、作者の魂の源流を探る旅でもあります。アンネの死の真実を確かめようとするその姿勢は、作者がなぜ小説を書くかと、自らに問いかける旅でもあったのです。

 

🔻『アンネ・フランクの記憶』の感想

 

旅の最大の目的は、生前のアンネを知る友人に話を聞くことにありました。その人物こそ、アンネの父・オットー・フランク氏の会社に勤め、アンネの日記を世に送り出した功労者、ミープ・ヒース氏です。

 

ミープ氏は、フランク一家が隠れ家へ身を寄せた際、夫婦そろって惜しみない援助をした人物として知られています。また一家が秘密警察に連行された直後、危険をかえりみず隠れ家に忍び入り、アンネの日記を救った人物のひとりでもあります。

 

🔽アンネの生きた時間が、作者の内に呼び込まれる瞬間

 

作者は大切な友人のようにアンネを思っていながらも、その存在はあくまで、遠い世界の住人としてしか感じられなかった節があります。ところが旅の途上、彼女の存在をぐんと身近に感じられる瞬間がおとずれます。それがミープ氏をはじめ、アンネの生前の友人ふたりから話を聞くシーンです。

 

作者がアンネについて質問する内容が、ジャクリーヌ氏(アンネの中学校時代の友人)にとっては、現実にあった生々しい記憶を語らなければならなかったこと。ミープ氏から、アンネが使用していた化粧ケープを見せてもらい、お洒落に人一倍気を使っていた、彼女の息づかいを感じとったこと等々……。

 

友人が語る記憶やアンネの遺品を通して、彼女の存在が具体的なかたちをとって作者に迫ってきます。それは過去と地続きになった同じ時間の内に、作者がアンネの存在をはじめて感じとった瞬間だったのではないでしょうか。

 

🔻歴史の片隅に生きた個人の息づかいを感じとること

 

旅の終盤で、作者はアウシュビッツに足を向けます。アンネの死の真実を見つめる同じ姿勢で、歴史に埋もれた人間ひとりひとりの物語に思いをはせます。それは終始、旅の一貫した態度でもありました。決して、ひとりの人間の死を、死者の数や歴史の災禍として、ひと括りに捉えようとはしません。

 

アンネ・フランクについて考えることは、ややもすると、ホロコーストや人種差別といった、大きなテーマに集約して語られがちです。しかし忘れてはならないのは、それらの言葉の向こうに、ひとりひとりの人間の物語や死の重みが埋もれてしまうことです。作者はその事実から決して目を逸らそうとしません。個人の物語から人間の生死をとらえるその姿勢に、小説を生業とする作家の矜持を見る思いがします。

 

 

(こっそりランキングに参加中です) 

 

【爆笑】その男、異邦人につき! 深沢七郎「言わなければよかった日記」~

ギター

 

今回読んだ本は、深沢七郎『言わなければよかったのに日記』

3章形式で展開される、260ページあまりのエッセイ集です。

 

肩の力が抜けた自然体の文章が心地よく、

すいすいと読み継いでいけます。

 

本書の読みどころは、ひょんなことから文壇の仲間入りをすることになった、

作者のとまどいや不安が読者を笑いの渦に巻き込んでいくところです

 

🔻『言わなければよかった日記』の内容

 

本書は、文士との交遊録、母の思い出、小話などを盛り込んだ、3章形式で編まれたエッセイ集です。作者の風貌が筆に表れたような自然体の文章が心地よく、さくさくと読み継いでいけます。なかでも腹を抱えて笑ったのが、表題作の「言わなければよかった日記」でした。

 

「言わなければよかった日記」は、正宗白鳥、武田泰淳、井伏鱒二といった文士との交遊録を綴ったものです。このエッセイは、本書のなかでも異彩を放っています。というのも、文壇事情に通じてないことから生じる、作者の来歴に深く関わっているからです。

 

🔽異色の経歴をもつ深沢七郎が小説家デビュー 

 

深沢七郎は中学卒業後、諸国を放浪し、ギター奏者として活動した、異色の経歴の持ち主です。写真で見ると、下駄をつっかけ、居酒屋をハシゴする、下町にいる「おいちゃん」といった風情を醸し出しています。

 

彼の運命は「楢山節考」を小説の新人賞に応募して大きく変わりました。三島由紀夫や武田泰淳といった選考委員に絶賛され、作家として世に登場したからです。大学出のエリートが集う、文壇の仲間入りをしたのです。

  

彼は幼い頃から小説家を夢見ていた訳ではありません。絵描きの才能がなかったので、自分の好きな風景を、言葉(小説)で描いてみたかったというのが、『楢山節考』を書いた真相です。しかし、つい出来心ような気持ちで書いた小説が、新人賞に輝き、思わぬ反響をよんでしまった。た、た、大変だぁ……。

 

🔽偉い先生方を前にして大暴れする深沢七郎!

 

「言わなければよかった日記」には、そんな彼が文士たちと交友する様子が描かれています。彼は大学出の先生方を前に謙遜するどころか、文壇事情に通じてないことをいいことに、大暴れの活躍をみせるのです。奇妙奇天烈な言動で、後悔と失敗を繰り返すその様が、読者の笑いをさそいます

 

しかし油断はなりません。「無知」という免罪符を懐に入れ、彼らにきわどい質問も浴びせもします。正直、トボケているのか、ふざけているのか、作者の真意はよく分かりませんが、新たな環境に直面した、その不安やとまどいが、笑いにさま変わりすることに驚かされます。まさに「異邦人」っぷりが存分に発揮されています。

 

🔻その真意はさておき、

 

作者の言動からは、良い意味で幼児性の強さを感じさせます。初読の際は、次々と繰り出されるその言動に、呆気にとられるばかりで、真意を計りかねていたのですが、その奇怪な言動が、次第に腑に落ち、気づけばひとり爆笑しておりました。痛快エッセイです。今年は作者の歿後30周年とのこと。この機会に是非に読んでくださいまし。

 

(こっそりランキングに参加中です) 

作者の著作

リルケが刻んだ永遠の青年像 ~リルケ『マルテの手記』の感想~

タイプライター



今回読んだ本は、ドイツの詩人・リルケが書いた『マルテの手記』です。

文庫本にして500ページを超える長編小説です。

 

立派な詩人になりたいと夢を抱くマルテが、

都会のパリへ上京してきた日々の記録が綴られています。

 

「マルテの手記」には、不慣れな世界で苦しみの底にあえぎながらも、

希望と夢を失うまいとする、美しい青年像が刻まれています

 

こんな方に!

・新しい環境に飛び込み、厳しい現実に直面した方
・自分を見つめ直したい方
・絶望の世界にじっくりとひたりたい方

 

🔻 「マルテの手記」の内容

 

舞台は二十世紀初頭のパリ。この時代のパリは、私たちがイメージする華やいだ雰囲気に包まれてはいません。表通りには紳士・淑女が闊歩するいっぽうで、裏通りには、時代に取り残された、不遇な人々があふれています。繁栄の影で、街はニ極化が進んでいたのです。

 

🔽約束された世界から大都会パリへ

 

主人公・マルテは、時代に取り残された人々を、その眼で仔細には観察していきます。マルテは田舎の町からパリへ上京してきた青年です。彼が都会のパリへ出るきっかけは、一族の家長であった父が亡くなったことがきっかけです。

 

幼少期を過ごした田舎町では、人々がいまだ心霊術に入れこみ、錬金術を信じるような、中世的な慣習が残る旧態然とした世界でした。マルテは、全体の調和の中にあって、自然に物事が収束するような、いまだ〈約束された世界〉の内に過ごしていたのです。

 

🔽未知なる世界で抱く、詩人という夢 

 

マルテにとって、パリの街は異様な世界として迫ってきます。街の規模のみならず、行きかう人々が、魂の抜け落ちた自失した姿として見えてくるのです。同様にマルテは、いまだ確固とした生の認識や実感を持ち合わせていません。彼にとって巨大都市・パリは、夢とも現ともつかない、未知の世界だったのです。

 

マルテにはひとつの夢がありました。それは立派な詩人になることです。自らに〈見ること〉を課すのは、生涯の夢である、詩の糧になると考えたからです。「詩は経験から生まれる」ことを信条にする彼は、街角を通り過ぎる人々の、表情や仕種のひとつひとつを観察するのです。

 

🔽清浄な世界をもとめる、青年の美しい軌跡

 

マルテの胸には、ある希望の炎が灯っています。その希望とは、先人たちが残した偉大な足跡と、幼少時代の美しい思い出だった、恋人アベローネの存在です。彼は先人たちの偉大な功績と、過去の美しい記憶を胸に抱えながら、清浄な意志を消すまいと懸命に生きるのです。

 

マルテは夢の実現の前に挫けそうになりながら、その希望を絶やすまいと、必死にもがき続けます。『マルテの手記』は、繁栄をうたうパリの片隅で、絶望にあえぎながら、清浄な世界をもとめる、美しい青年像が刻印された作品です。 

 

🔻「マルテの手記」の感想

 

「マルテの手記」を読むと、ある作品との共通点に気づきます。田舎に住む青年が、未知なる都会でさまざまな経験を繰り返す……。この話、どこかで読んだ覚えはないですか。細かい内容にこそ違いはあれど、あの小説とそっくりです。そう、夏目漱石の『三四郎』です! 

 

🔽『マルテの手記』と『三四郎』の共通点

 

『マルテの手記』は、『三四郎』と非常に似た構造をもっています。『三四郎』は、主人公・小川三四郎が、九州の田舎町から東京の大学へ進学するために、汽車で上京をするところから話が展開します。

 

上京の際、車内で一緒になった人物から、日本の将来を悲観する言葉を聞かされたり、大学の教授宅で知り合った、美穪子(みねこ)に想いを寄せたりと、東京での大学生活を焦点にした青春小説です。ふたつの作品には、新たな世界へ旅立つ内容ならではの、ある特徴があります。

 

🔽マルテにとって心のお守りとは?

 

それは田舎と都会、旧世界と第三の世界、といったように、過去と現在の世界が、明確に棲み分けられてることです。注目したいのは、主人公が旧世界から異世界へ身を投じる際に、心の支えとなる人物が登場することです。

 

『マルテの手記』においては、それは幼少時の恋人だったアベローネとの記憶であり、『三四郎』においては、郷里にいる母親(または同郷の人物)がそれにあたります。こうした人物は、主人公にとって、新世界に飛び込む際の、心の支えとなるお守り的な役割を果しています。いわば主人公の心の緩衝材になっているのです。

 

🔍ポイント

主人公の心の支えとなる、お守り的(護符的)役割を果たす人物が登場する!

 

🔻リルケが刻んだ永遠の青年像

 

あなたにも経験はないでしょうか? 上京時、旅立ちの時、大切な人から贈られた品物や思い出を、心の支えにしたようなことが。どんなにささいな思い出や小さな物でも、当事者にとっては、何ものにもかえがたいものです。その点では、主人公のマルテも我々と同じです。

 

『マルテの手記』は決して明るい小説ではありません。いや、だからこそ、彼が胸に秘める美しい思い出や清らかな意志が、いっそう輝きを放って胸に迫ってきます。新たな環境に飛び込み、厳しい現実に直面した方、自分を見つめなおしたい方、絶望にじっくりとひたりたい方に、オススメしたい一冊です。

 

 

(こっそりランキングに参加中です) 

本文で言及した作品 

胸躍る、時代小説の人気作家が描く戦国ロマン ~山本周五郎「秘文鞍馬経」を読む~

埋蔵金伝説に心惹かれる。その魅力は、真偽の定かでない「いかがわしさ」と、歴史の考証をもとに仮説をたてる「もっともらしさ」にある。徳川埋蔵金の検証番組など、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ついつい見てしまう理由はそこにある。山本周五郎の著作を手にとったのも、戦国時代の秘宝と埋蔵金が絡んだ、ロマン小説だからという一点につきる。

 

🔻「秘文鞍馬経」の内容について

 

天正十年三月、武田家二十代当主・勝頼の自害によって武田家五百年の歴史に幕が降りた。ほどなく、甲斐国・天目山の麓を、三人の落武者が逃げ延びていた。全身に傷を負い、ぼろ衣のように朽ちた三人は、徳川の敵兵に追い立てられ、野をひた走っていた。だが、壮絶な切り合いの末、奮闘むなしく力尽きてしまう。

 

(Amazonへのリンク画像)

 

時は流れ、東軍と西軍が雌雄を決する、天下を二分する世に入った。高市家は、甲斐国で二百年余も続く、土着の豪士として名の知れた家柄。倅・高市児次郎は、家来筋にあたる伝太をつれ、武田家の勇士を弔う落武者塚で、仔熊狩りに興じていた。そこに、草むらの影から少女が姿をあらわす。名を小菊という。

 

小菊曰く、父は佐和山城の城主・石田治部(三成)の御用係を務めていたが、現在はその消息が掴めず、上野国から父を探しに京へのぼる途中だという。だが、近郊の山に差し掛かった旅中、悪者に追われ、ここまで逃げ落ちてきたと告げる。児次郎は少女の身を案じ、高市家の屋敷にひと晩、身を寄せることを勧める。

 

一方、児次郎の父・与吉衛門のもとを、鞍馬寺の老僧・閑雪(かんせつ)が訪ねる。与吉衛門は関雪から、信玄が存命中、家の将来を案じ、武田家伝来の宝物黄金二千万両とを石棺に詰め、諏訪の湖に沈めたとの噂を聞かされる。放物の隠し場所は、金襴袋に入った「武田流軍学書・五巻」に記されているらしい。

 

与吉衛門には心当たりがあった。かつて落武者塚を築いた際、彼は遺骸の近くに落ちていた金襴袋を鉄櫃に入れ、地中へ埋めたのである。急ぎ塚へ駆け馳せる二人だったが、すでに何者かに先回され、塚は夜陰にまぎれ掘りこされていた。同刻、児次郎は高市家の屋敷に身を寄せる小菊の姿が見当たらないことに気づく。

 

以降、武田家伝来の秘宝をめぐって、さまざまな人間の思惑が絡む、熾烈な争奪戦が繰り広げられる。

 

🔻伝奇ロマン小説の中にも戦下の足音が……

 

「秘文鞍馬経」は、山本周五郎が昭和十四年から十五年にかけて、子供向け雑誌に連載、戦後になって単行本として出版された、時代伝奇小説だ。子供向けの内容とは素直に頷きがたいが、血わき肉踊るチャンバラあり、人の道を説く情理ありと、サービス精神旺盛で、小気味よく読み進めていける。戦国武将の秘宝をめぐる争奪戦には、やはり心が躍った。

 

ただ、中盤以降の展開にはやや物足りなさも残る。これは作品の出来・不出来という性格よりも、戦争に入った時代の不幸がそうさせるのかもしれない。終盤、敵方とのを重んじ、双方が寛容さを示すところは、解説にある通り、作者が時代を冷静に見つめていた証拠だと思った。

 

埋蔵金や秘宝を扱った、ロマン小説として本書を読み始めたが、戦下にあった時代の影響が感じられ不意をうたれた。児童向けの小説の中にも戦争の足音が刻まれていた。

 

(こっそりランキングに参加中です) 

著者の文庫新刊

 

林芙美子という生活人 ~林芙美子『風琴と魚の町・清貧の書」の感想~ 

本


今回読んだ本は、林芙美子『風琴と魚の町・清貧の書』です。

本書には初期の作品群から9つの短編が収録されています。

 

その大半が作者の身辺に材をとった私小説で、

貧しい生い立ちや夫婦の関係が中心を占めています。

 

本書を読んで発見がありました。

 同じ経験をベースにした短篇小説でも、

語りの視点が異なれば、違った印象に感じられることに

大きな驚きをおぼえたのです。

 

 🔻 林芙美子のプロフィール

 

林芙美子は、福岡県門司区(諸説アリ)に生まれた、昭和初期から戦後まで活躍した小説家です。『放浪記』の一節、「私は宿命的に放浪者である」というフレーズが象徴するように、彼女は行商人の養父と母に育てられ、九州や中国地方を放浪する幼少時をおくりました。大正5年「風琴と魚の町」の舞台となった広島県尾道市にしばらく落ち着き、地元の高校を卒業後、遊学中の恋人を頼って上京(後に婚約を解消)。さまざまな職業を経験します。

 

f:id:mono-sashi:20181128192309j:plain

 

上京から4年後、画学生の手塚緑敏と婚約。上京時から、東京での生活をつづった日記をつけ始め、それが後に『放浪記』の原型となります。昭和5年『放浪記』がベストセラーとなり、後に映画化・舞台化もされました。また日中戦争時には、ペン部隊の一員として武漢作戦に従軍し、『戦線』『北岸部隊』を発表。初期作品の特徴は、自らの過去に取材した、自伝色の強い作風にあります。

 

🔻 『風琴と魚の町・清貧の書』の感想

 

本書には初期の短篇から9つの作品が収められています。表題作「風琴と魚の町」「清貧の書」をはじめ、自伝色の強い『耳輪のついた馬』、後期の作風につながる「牡蠣」といった作品群です。全体を見渡して気づくのは、「馬」「魚」「牡蠣」と、生き物の名が題名に多く入っていることです。とはいっても、小説の主人公が、馬や魚に設定されているわけではありません。

 

(Amazonへのリンク画像)

 

あくまで作中では、夕餉や露店で口にする料理の一部として登場するのみです。では、なぜタイトルに盛り込んだのか、これが要領を得ないのです。たとえば、一見投げやりな「馬の文章」という短篇を読んでも、全体からは題名の意味が汲みとれません。「耳輪のついた馬」というタイトルから想定すると、芙美子は、自らの境遇や生活ぶりを、一段と低いものと見なし、自らを馬という動物に見立てたのではないか、と私は推測します。

 

🔽「魚の序文」がおすすめ!

 

おすすめは「魚の序文」という短篇です。これは表題作の「清貧の書」と対をなしています。いずれの作品も、芙美子が上京して知り合った、手塚緑敏との生活をベースに書かれたものです。とはいえ、双方から浮かびあがってくる印象は、まったく異なったかたちをとります。

 

日々を無為に過ごす男のかわりに、妻が家を支える点は同じですが、小説を語る視点に違いが生じるからです。女の視点から描く「清貧の書」は、男運のなかった妻が、夫に寄り添い、逆境を耐え忍ぶ日々を描いたものです。正直なところ、全体の印象としては、見るべきものがありませんでした。それは女主人公が、否応なく芙美子の姿に重なってしまったことにも原因があります。

 

🔽 「魚の序文」の菊子の存在感がスゴイ!

 

いっぽう「魚の序文」はどうでしょう。男の視点から描いているせいか、作者との間に適度な距離が生じて、貧しい生活のもとにある人間の様子が、あざやかに浮かびあがってくるのです。何といっても、この小説の素晴らしさは、妻・菊子の存在に支えられています。

 

彼女は働き口のない夫の代わりに、家計を支えるために忙しなく動き回ります。貧しい暮らしぶり、窮屈な生活にも、打ち負かされることもありません。このように書くと、肝のすわったたくましい女性を思い浮かべる方もいるでしょう。そうではありません。彼女はどこまでも自然体で、風のように颯爽としているのです。おおらかで悠然とした気質もそなわっています。

 

この菊子の存在感に魅了されました! 夫は菊子が行動を起こすたび、自らの甲斐性のなさを恥じて、彼女を叱りつけます。しかし、菊子の溌剌とした人柄が、どん底にある夫の救いにもなっています。非力な夫と軽やかな女の資質の違いが、あざやかに浮かびあがってくるのです。私は「風琴と魚の町」と「魚の序文」の2篇がおもしろかったです。

 

🔻 林芙美子にとって小説とは?

 

「魚の序文」の同じように、短篇の大半は夫婦や生い立ちを描いています。そこで思うことがあります。林芙美子は、小説をどのようにとらえていたか、ということです。果たして、彼女は小説を芸術としてとらえていたのでしょうか。私の考えは違います。小説は彼女にとって、日々の糧を得る手段だったのではないか、と思うのです。

 

小説の端々からは、我々と変わらない、生活人としての作者の視線を感じるのです。つまり、彼女は肉体労働や職人仕事と変わらない、日銭をかせぐ手段として、小説を書いていたのではないか、ということです。この短編集には、良くも悪くも、人物や文章の向こうに、芙美子の生活の息吹きが感じられます。

 

🔍まとめの感想

林芙美子は、芸術として小説をとらえるのではなく、日々の糧を得る生活の手段として小説を考えている

 

(こっそりランキングに参加中です) 

・『風琴と魚の町』『魚の序文』『清貧の書』はこちらでも読めます
・『風琴と魚の町』『清貧の書』はこちらでも読めます

文章の手直しに時間がかかるあなたに ~唐木元「新しい文章力の教室」の感想~

 

ライティング

 

文章力を向上させたい執筆のスピードをあげたい

そんな思いにかれる方は多いのではないでしょうか。 

 

かくいう私もそのひとりです。

いかんせん、執筆のスピードがあがりません。 

 

のみならず、いちど書いた文章に、

手を入れることにも時間を奪われます。

 

ところで、なぜ文章がスムーズに書けないのか、

その理由には、いくつかの原因がありそうです。

 

・何を書くか分からない(内容)
・どう書くか分からない(方法)
・手直しに時間がかかる(推敲)

 

今回読んだ本は、そうした悩みにアドバイスをくれる、

「新しい文章力の教室」という文章の上達法を説く指南書です。

 

もちろん、執筆の際のアドバイスも豊富に紹介されています。

他の書籍とは異なるキラリとした個性が光っていますよ。

 

🔻 『新しい文章力の教室』の内容 

 

本書は、コミックナタリー初代編集長の著者が、文章の書き方を指南する「できるビジネス」シリーズの一冊。全5章、77のチャプター形式に分かれた構成で、実際の研修で使われる、ナタリー式の文章術を学べます。

 

Amazonへのリンク画像)

 

著者は冒頭で「良い文章とは何か」と読者に問いかけます。あなたなら、どう答えますか。「洗練されている」「読みやすい」「イメージが浮かぶ」などなど……。著者はこう定義します。

 

良い文章とは「完読される文章である」、と。書き手が過不足なく情報を伝え、読者にメッセージを送ることこそが、良い文章の不可欠な要素である、というのです。では良い文章を書くためには、どうすればいいのでしょうか。

 

それは文章を書き始める際の事前準備を怠らないことにあるといいます。執筆にかかる前に、あらかじめ文章全体の「主眼」「骨子」を組み立てる必要がある、と。「主眼」とは、文章全体のテーマ、あるいは切り口のこと。これは書き手が、文章を書く目的に該当するものです。

 

また「骨子」とは、記事全体の骨組みのこと。各トッピクスをどんな要素に分け、どのような順序で述べ、どれくらいのボリュームに仕上げるか、これが「骨子」の中身になります。いわば記事全体のトータルデザインとも言えます。

 

この「主眼」「骨子」をプランニングして、実際に執筆することを、本書では「構造的記述法」と呼んでいます。 この基礎事項をふまえ、文章の仔細な注意点を説いたのが本書の中心部となります。うーん、何とロジカルな構成なのでしょう。

 

 

🔻「新しい文章力の教室」の感想

 

私が本書を手にとったのは、文章を手直しする推敲の時間に、大幅に時間がかかることにありました。推敲がとにかく苦手なのです。書き上げてから文章に手を入れても、時間を置いて見直すと、どうもしっくりこないことが多い。

 

推敲のポイントをもっと効率よく指南してくれないかとの思いで、本書を手にとりました。本書には、第2章に、推敲する際のポイントが設けられています。しかし、私の見たところ、他の章でも参考になる注意事項が多く挙げられていました。こんな感じに。

 

☑ チェック!

1・属性を問う主語は「こと」で受ける
2・時間にまつわる言葉は「点」か「線」かに留意する
3・努力を 名詞と呼応する動詞を選ぶとこなれ感が出る

 

具体的に事例をひきましょう。1の属性を問う主語について。「私の趣味は……」「私の長所は……」といった属性を文の主語にする際、述語の後には、「こと」が入ることは、お分かりになると思います。

 

例文:私の趣味は映画を鑑賞することです。

 

これは「特徴」や「長所」といった言葉が、名詞でなければ受けられないからです。例文は、単調な構造のため間違いを起こしにくいですが、文の構造が複雑になると、「こと」が抜けてしまうことが、私にはよくあります。執筆の際の注意点のみならず、推敲する際のポイントも、チャートごとに分かりやすく解説してくれます。

 

🔻 執筆を全体のプロセスからとらえると……

 

世の中には、文章力の向上をうたった書籍が多く出回っています。試しに、書店に並ぶ数冊の指南書を手にとりましたが、その多くが書く際の注意点に向けられていました。本書が優れているのは、文章を書く際のコツを網羅するとともに、推敲にも等しく目配せがされている点です。

 

それは本書の構成にもうかがえます。先にふれた第一章の「主眼」と「骨子」を説明した次章が、「読み直して直す」という推敲の章に割かれています。こういった構成は、他の書籍ではなかなかお目にかかれません。

 

私は初めから完璧な文章を書きあげることなどできません。最初は勢いにまかせ、文章を書きあげた後、推敲を繰り返しながら、完成に近づける方が、時間の面からも、断然、効率良いからです。画家が、絵の制作にとりかかる際、事前にスケッチを描き、完成イメージを膨らませるのと一緒です。

 

執筆の作業は、脱稿までに至る全体のプロセスからすると、その一部にしかすぎません。いちど書いたら、余分な言葉をけずり、不足分の言葉を補いと、数度の手直しを入れて、初めて脱稿にいたるからです。

 

私は本書をすすめるのは、その推敲する際の注意事項が各章に紹介された点にあります。チャート式なので非常に見やすく、参照しやすい点も良いですね。文章を上達させたい方に、ぜひ手に取ってほしい一冊です。

 

✎まとめの感想

書き上げただけの文章は、脱稿するまでの全体のプロセスからすると、あくまで(ことばの)素材を集めたにしか過ぎない。 

 

(こっそりランキングに参加中です) 

おすすめの文章作法本

恋愛ベタな僕が大学生に『愛の試み』をおすすめする理由

タイプライター

 

今回読んだ本は、福永武彦『愛の試み』

 文庫本にして160ページと短い、哲学風のエッセイです。

 

愛という抽象的な内容をあつかうため、硬質な文体で、

抽象的な言葉が多く使われています。

 

ですが、エッセイをもとにした挿話付きなので、

読者が実感に即して理解できるようにも工夫されています。

 

恋愛を通して、他者との在り方についても学ぶことができます。

それでは、以下に本書の内容を書いていきます。

 

🔻福永武彦のプロフィール

 

福永武彦は、現・福岡県筑紫野市に生まれた、戦後に活躍した小説家&詩人です。幼少時は、父の影響で転勤を繰り返しました。昭和16年、東京帝国大学仏文科を卒業。戦後、北海道・帯広市に中学校教師として赴任。しかし、持病の肋膜炎を発症し、東京の療養所に入ったことを機に、本格的に作家活動に入ります。 

地図

 

戦後、中村真一郎、加藤周一らと、同人誌「マチネ・ポエティックス」を刊行。日本語での詩の可能性を探る運動を起こしました。昭和29年『草の花』を発表し、文壇に地位を確立。加田伶太郎の名義で発表した推理小説のほか、映画「モスラ」の原作者の一人としても有名です。人間の内奥にひそむ心理を描く筆に定評があります。

 

🔻 『愛の試み』の内容について

 

『愛の試み』は、愛と孤独について考察した哲学風エッセイです。考察の範囲は、異性との間で生じる愛の発生から終焉に至るまでが対象となります。また要所では挿話が付いており、実感に即して内容を理解できる仕組みにもなっています。

 

作者は、人が生きていくうえで、欠かすことのできない要素が、愛と孤独の2つにあるといいます。生を充実するための要素として、愛を挙げるのは理解しやすいでしょう。では、孤独はどう関係があるのでしょう。

 

それは愛と孤独が表裏の関係にあるからです。作者は言います。人は生まれながらにして、孤独と愛とを宿している、と。幼児期は「愛すること」と「愛されること」が不可分な状態にあり、愛と孤独とはいまだ対立し合う関係にはありません。

 

Amazonへのリンク画像)

 

しかし思春期に入ると、エゴが芽生え、愛することと愛されることの量を比較するようになる。すると、次第に孤独の意識をつのらせ、他人の愛をひとり占めしようとの思いにかられる……。こうした過程において、人は自分だけの愛の対象を求めるようになっていきます。

 

そこに異性への愛が生じてくるのですが、その愛に比例して、孤独の思いの強さも大きくなる。つまり異性へ寄せる思いがつよければつよいほど、孤独の大きさが増すというのです。そして人は生まれながらにして、愛と孤独に宿命づけられた存在だ、と説くのです。

 

🔻「愛の試み」の感想について

 

私がこのエッセイを読んだのは、20代の初めの頃でした。その時の感動は今でも忘れられません。当時の私は、友人がろくにおらず、恋人もいませんでした。ひとりで過ごす時間が多く、寂しさや孤独感におそわれ、生きている実感にとぼしかったのです。そんなひとりぼっちの私に、この本は生きる励ましをくれました。 

 

🔽本を読むタイミングの重要性

 

私が感動したのは、内容もさることながら、作者の詩的で美しい文章と観念的な世界に魅了されたせいでもありました。観念的であるからこそ、感動がいっそう増幅したともいえます。そもそも読書は、本の内容もさることながら、読む人間の年齢、状況、タイミングにも大きく左右されます

 

本を読んでも、内容がすんなり頭に入ってくることもあれば、入ってこないこともある。読書は、読む側のコンディションや状況にも大きく関わってくるものです。本の内容と自分の問題意識が、うまくマッチしていれば、すんなり本の世界に入り込めるし、得た感動もいっそう大きくなります。

 

🔽『愛の試み』に生きる勇気をもらう 

 

いま思えば、この本を読んだのが二十代の初めだったというのは、タイミングとしては最適だったように思います。当時の私は孤独感にさいなまれ、それとどう付き合っていけばいいか、分からなかったからです。寂しさにおそわれるいっぽうで、それを深く考える術も見つけられませんでした。

 

ですが、この本を読んで「お前はそのままでいいんだよ」と、声をかけてもらったようで、生きる勇気がわいてきました。「決して、お前だけじゃない。孤独を感じるのは、特別なことじゃない。人間誰しも、寂しさに襲われ、悲しみに暮れることもある。それが生きていることなんだ」、と。

 

🔽愛を語るのは若さの特権!?

 

いまでは「愛」などと聞くと、私などは小恥ずかしい気持ちにおそわれますが、若い時は、経験がない分、答えのない問いを、ああだ、こうだと考えたものです。時には、数少ない友人と、ひとつのテーマをめぐって、とりとめない議論をかわすこともありました。「アオハル」ってやつです。

 

そんな時期に読んだからこそ、私は「愛」が考察されたこのエッセイに感動したのだと思います。大人になって、このエッセイを読んでいれば、また違った印象を抱いたことでしょう。この2つが、本書を大学生におすすめする理由です。

 

✎おすすめ理由

・生きる勇気をもらったこと
・愛という若い時分にぴったりのテーマ性

 

🔻恋愛の醍醐味は他者性にこそある

 

恋愛とは、相手に思いが通じて、はじめて関係が成り立つものです。どちらか一方的に思いを寄せ、いくら情熱を燃やそうと、相手との関係がある以上、その思いが必ずしも実るとは限りません。私も泣くほど恋愛には苦労しました。

 

また恋愛とは人が物心ついてから、初めて本質的な他者に遭遇する機会でもあります。いいことばかりではなく、理不尽なことにも多く直面するはずです。自分の思いが通じず、ままならないこともある。そこに恋愛の醍醐味があります。

 

異質な他者との付き合いにこそ、恋愛の本質がひそんでいます。大学生の方、失恋した方、寂しさに押しつぶされそうな方、ぜひ手にとってください。個人が全盛の時代に、恋愛の奥深さと他者とのあり方について、考えを深めませんか。

 

  

(こっそりランキングに参加中です) 

別名義で発表した作者の著作