【徹底比較!】 あなたはどれが好み? カフカ『変身』の訳文を読み比べてみた!
20世紀最大の作家の1人に数えられるフランツ・カフカ。
『変身』は、多くの出版社から刊行されており、訳者ごとにどんな違いがあるか、興味がある方は多いかもしれません。
そこで、3つの出版社から刊行された『変身』の訳文を読み比べ、それがどのように違うかを探っていきたいと思います。
- 1.古典作品は訳者ごとにどんな違いがあるか気になる!
- 2.『変身』の概要について
- 3. 場面の状況が理解しやすく、日本語の格調が高い、新潮文庫『変身』高橋義孝訳
- 4. 人物の個性や内面が豊かに感じられる、角川文庫『変身』中井正文訳
- 5. 親しみやすく読みやすい、岩波文庫『変身』山下肇・山下萬里訳
- 6.まとめ
1.古典作品は訳者ごとにどんな違いがあるか気になる!
翻訳者の方が、海外小説を日本語訳した際の裏話は、ときに作中の語句を引用しながら、その考察や訳し方の注意点に触れたものまであり、読者としても参考になります。
しかしながら、外国語に精通していない私などには、日本語に移植する際のことばの正確性や作者の文体の再現性などは、それほど気にならないのも事実です。
というのも、海外小説を読む場合は、ある程度、翻訳者の方を信頼しているとともに、翻訳には誤訳がつきものであり、日本語に移植する際の翻訳の限界を見越して、本を読んでいるからです。
だから、誤訳を指摘するような文章を目にしても、「へえ、そんなもんか」と思う程度で、翻訳者の方への信頼が揺らぐほどの決定的な瑕疵にはなりなせん。というか、私はそもそも外国語が読めないので……w
むしろ私が翻訳で気になるのは、複数の出版社から刊行されている古典作品の場合です。それぞれの訳者によってどんな違いがあるか、どんな日本語に訳されているか、そちらの方が気になります。
それぞれの特徴や違いを知ることで、本を選ぶ際の基準になるからです。そこで複数の出版社から刊行されている、訳文の違いを比較するには絶好の素材、カフカの『変身』に注目しました。
この記事では、3つの出版社から刊行されている文庫本の『変身』の読み比べを行い、日本語から読みとれる印象やニュアンスの違いから、どのような違いが見えてくるかを読みとっていきます。
2.『変身』の概要について
カフカの『変身』は、1915年に雑誌に発表された中編小説です。カフカの生前に発表された数少ない作品のひとつで、そのいっぷう変わった物語は、不条理小説ともいわれています。
原書で出版された『カフカ全集』には3つのタイプがあり、なかでも、新潮文庫・角川文庫・岩波文庫が底本にするものが、カフカの友人の手によって刊行された「ブロート版カフカ全集」と思われます。
(原書の『ブロード版カフカ全集』が刊行された年を参考に、日本で文庫が刊行された年や、訳者の解説、あとがきの内容などから総合的に判断した)
全集を編集する過程で、異同があったとは思えませんが、あくまで正確を期すために、友人の手によって刊行された『ブロート版カフカ全集』を底本にした(と思われる)、3つの出版社の文庫本を取りあげます。
比較する範囲は、小説を読んでない方に配慮して第1章のみをとりあげます。ただし、かなり内容に踏み込んで考察しているので、未読な方はくれぐれもご注意ください。それでは、訳された年代の古い順に見ていきましょう。
3. 場面の状況が理解しやすく、日本語の格調が高い、新潮文庫『変身』高橋義孝訳
はじめに新潮文庫の高橋義孝訳をとりあげます。高橋訳は、戦後に文庫として出版された『変身』のなかで、第1訳業にあたるパイオニア的な存在です。新潮文庫の旧版は1952年に刊行されました。
高橋訳の良さは、翻訳された時代がもっとも古く、場面によってはやや硬い表現が見受けられますが、場面の状況が理解しやすい、日本語の格調の高さにあるいえます。ポイント別に見ていきましょう
3-1 冒頭の印象について
物語に読者をどう惹き込むかが重要になる小説の冒頭部。高橋訳はどう訳しているのでしょうか。より理解しやすいように、角川文庫・中井訳とならべて比較してみましょう。
新潮文庫・高橋訳
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。 (p5)
角川文庫・中井訳
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベットのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。(p6)
高橋訳が他の訳と異なるひとつに、主人公の名前があげられます。ズバリ、「グレーゴル」です。これは高橋訳だけに採用されている名で、ややゴツっとした語感がともないます。角川文庫・中井訳の「グレゴール」と比べると、その響きの違いが分かるはずです。
また高橋訳は、文末を「発見した」としており、角川文庫・岩波文庫の2人の訳者が「気がついた」とする訳と比較すると、ザムザが未知の出来事にあった際の事態の大きさが、より強調された訳になっています。
後に触れますが、ザムザが変身した姿を「虫」とするところにも違いが見られます。高橋訳の冒頭部は、他の訳文と比べると個性的といえそうです。
3-2 人物の印象について
高橋訳は、先ほど日本語の格調の高さと、やや硬い表現に特徴があると書きました。これは表裏の関係にあります。以下に引用する文章は、家族や関係者が、ザムザの異変に気づき、応援を呼ぼうとした際の、彼の反応を描いた場面です。
新潮文庫・高橋訳
最初の処置がとられたさいの確信と着実さとに彼は気をよくした。これでまたふたたび人間世界に結びつけられたという気持ちになり、両者つまり医者と錠前屋とから、ぼんやりこのふたつのものをひとつに考えながら、大がかりで驚異的な成果を期待した。(p27)
岩波文庫・山下訳
断固としてなされた最初の指図が、彼には心地よかった。これでまた人間の仲間に加えられたという気がして、医者と錠前屋から、両者のどちらでもいいのだが、驚くほどすばらしい成果を期待した。(p27)
いかがでしょうか。高橋訳からは、ザムザの緊迫した気持ちと、日本語の格調の高さを感じさせる反面、やや言い回しが硬いようにも感じられませんか。
いっぽう岩波文庫・山下訳は、誇張された箇所をのぞき、スムーズに読みつげる、フラットな日本語で訳されているように感じます。もうひとつ引用しましょう。
新潮文庫・高橋訳
ところで玄関の間で彼は階段のほうに向かって思いきり右手を伸ばした。階段のところには、まさに超地上的な救済が彼を待ちもうけているとでもいったふうであった。(p33)
岩波文庫・山下訳
そして玄関ホールに入ると部長は、さながらそちらで天の救いが自分を待ちうけているかのように、外の階段室の方へ右手をおもいきり差しのべた。(p33)
「地上的な救済」と「天の救い」。それぞれの訳し方の違いが見てとれます。後に詳しくみますが、高橋訳のザムザは、自らのことを「おれ」と呼んでいることも印象的です。
そのせいか、角川文庫・中井訳と比較すると、ザムザは違った人物のように感じられます。つぎの文章を比べてください。
新潮文庫・高橋訳
また目ざましが時を打った。「もう七時だ」と彼はつぶやいた。「もう七時だ、それなのにまだこの霧だ」(p15)
角川文庫・中井訳
「――もう七時なのか」と、ちょうど目覚まし時計があらたに鳴ったので、彼はひとりごとを言った。「七時になってもまだ、あんな濃い霧がかかってるのかな……」(p15)
角川文庫・中井訳のザムザは、語尾に付くことばの印象から、根が優しい人柄の良さを感じさせますが、高橋訳のザムザは、都会風のクールな人物を思わせます。
まるで往年のフランス映画の主人公のようです。日本語の格調の高さが、語り手の口調とザムザの人物像に影響を与えているように感じられるのです。
3-3 文の印象について
高橋訳が、場面の状況が理解しやすい理由のひとつに、訳文をどう配置するかという順序が関係しています。つぎの一節は、巨大な虫に変身したザムザの部屋へ、妹が食事を運んできた場面です。
新潮文庫・高橋訳
それから急いで部屋を出て行き、あまつさえ外から部屋に鍵をかけた。これはグレーゴルが妹の前では恥ずかしがって食べられないだろうと察しての思いやりからであり、鍵をかけたのは、人に見られずに気楽に食事できるということをグレーゴルにぜひわかってもらいたいからのことであった。(p46)
角川文庫・中井訳
グレゴールは、自分のいる目の前では食べにくがるだろう、というやさしい思いやりから妹は急いでその場をはなれ、グレゴールが気楽にしたいほうだいにふるまっていいのをわからせるために、わざとドアに外から鍵をかけた。(p46)
新潮文庫・高橋訳では、妹が部屋を出た行動が示されたあと、彼女が部屋を出た理由が説明されています。高橋訳ではこうした書き方が多用されており、場面の状況がわかりやい分、やや説明的に感じられないでしょうか。
角川文庫・中井訳のように、他の訳文では、妹の行動と理由が一節にセットでおさめられています。文を組み立てる順序からも、読み手が受ける印象は違って感じられるのです。
ところどころ時代がかった語句が散見されますが、1952年に訳された事実をあわせ考えると、それほど古さを感じさせません。高橋訳は、もっともスタンダードな『変身』訳といえるでしょう。
日本語の格調の高さに特徴があり、場面の状況が理解しやすい!
4. 人物の個性や内面が豊かに感じられる、角川文庫『変身』中井正文訳
つぎに角川文庫の中井正文訳です。中井訳は新潮文庫・高橋訳につづき、2番目の訳業にあたります。旧版は1952年に刊行されましたが、1968年に改訳されました。
中井訳の良さは、やや古めかしい言い回しが見られるいっぽうで、人物たちの個性や内面がいきいきと伝わってくるところにあります。ポイントをふまえながら、内容を見ていきましょう。
4-1 冒頭の印象について
中井訳は冒頭部をこう訳しています。主人公の名前に注目しながら読んでください。新潮文庫・高橋訳では、主人公の名は「グレーゴル」と訳されていました。
角川文庫・中井訳
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベットのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。(p6)
岩波文庫・山下訳
グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。(p7)
主人公の名は「グレゴール・ザムザ」となり、これは岩波文庫・山下訳と共通します。語感の響きが心地よい名です。またザムザが変身した姿を「大きな毒虫」、文末を「気がついた」と訳すところも同じです。
新潮文庫・高橋訳では「大きな虫」とされていたところです。大きな「毒虫」と、巨大な「虫」。毒虫はイメージされる対象が限定されるのに対し、虫はより抽象的なイメージとして、読者に喚起されるのではないでしょうか。
こう見ると、角川文庫・中井訳と岩波文庫・山下訳の冒頭部は、同じグループに属するといえそうです。ただし中井訳は、「ふと」という語句が挿入されることで、巨大な毒虫に変身した事実が、朝の何気ない出来事のひとつとして、捉えられています。
4-2 人物の印象について
中井訳が他の訳文ともっとも異なるのが、作中から受ける人物の印象です。『変身』の第1章は、ザムザの独白が、地の文と混ざりあうところに違いが表れてきます。つぎに引用する文章も、そのひとつです。
こんな場合、非はまったく自分のほうにあるのかな。(p10)
先にも触れたように、中井訳はザムザの独白の語尾に「かな」とつくのです。その語尾のニュアンスによって、各場面は、彼の幼さ、家族へのいたわり、虫に変身したことの不安などが、浮かびあがる訳になっています。
ここにザムザが自らを「おれ」と呼ぶ、新潮文庫・高橋訳との違いが見てとれます。
角川文庫・中井訳
ところで、そんな真似をしたらお店で自分がやらかそうものなら、即刻馘になってしまうだろうな。(p8)
新潮文庫・高橋訳
このおれが、そんなことでもしようものなら、社長はいきなりおれを首にしてしまうだろう。(p8)
主人公の口調だけではありません。「グレゴールや……」という母親のセリフ、「どう返事したもんか、わしらにゃわからんでな」といった父のセリフからは、一家の家計をザムザに託さなければならない、両親の老いや育った土地をも感じさせるようです。
中井訳は、登場人物の性格や内面がより豊かに伝わる訳といえそうです。
4-3 文の印象について
冒頭から巨大な虫に変身しまうザムザ。あまりの唐突な展開に笑ってしまった方もいるかもしれません。実際、カフカは『変身』を笑いながら友人たちに朗読したといわれます。
そう、この小説は笑える要素を含んだ内容でもあるのです。中井訳では、ザムザが虫に変身したことで、周囲の人間が慌てふためく場の雰囲気が、上手くとらえられています。以下に引用する文章は、ザムザが家族や支配人の前にすがたを現した場面です。
角川文庫・中井訳
ようやく玄関の控え室までひきさがると、とつぜんからだをひるがえして、たったいま足のうらに火がついたような慌てかたで居間から最後の一足を引っこぬき、もう控え室へとびこんでいた。(p34)
新潮文庫・高橋訳
そうやって彼はついに玄関の間に行きついた。最後に彼が一方の足を茶の間から引きぬいた目にもとまらぬ運動を見た者は、彼がそのとき踵を火傷したといった感じを受けたといってもむりはあるまい。(p33)
文中の彼とは支配人のことを指しています。中井訳は「足のうらに火がついたような慌てかた」、「最後の一足を引っこぬき」といった表現が、ユーモラスに感じられ、混乱する場の雰囲気をうまくとらえているように感じます。
角川文庫・中井訳が1968年に改訳されたこともあり、やや文章のリズムが滞りがちで、現代から見ると、あまり聞きなれない言い回しも散見されます。これは新潮文庫・高橋訳とともに、翻訳の宿命といえるでしょう。
ベットの中なんかでいくら頭をはたらかしたところで、上分別など湧きそうもない気がしたからだ。(p13)
見本はまだ包んでなかったし、ご本尊も活発に動きまわりたい気がちっとも起こらないというわけなのだ。(p10)
ちなみに「ご本尊」とは、ザムザを示しています。また新潮文庫・高橋訳では、アーモンドのことを「巴旦杏(ハタンキュウ)」と訳されていました。これはさすがに、現在の読者にはわかりにくいでしょう。
この他にも、中井訳はザムザの職業をセールスマンとしていますが、彼がいったいどんな仕事をいているか、他の訳文と比較すると、ややイメージしにくいかもしれません。
しかしながら、場面の雰囲気や人物たちの内面が非常に豊かで、小説のおもしろさが充分に伝わってくる訳といえます。
人物たちの個性や内面、場面の雰囲気ががいきいきと伝わってくる!
5. 親しみやすく読みやすい、岩波文庫『変身』山下肇・山下萬里訳
さいごに岩波文庫:山下肇・山下萬里訳です。山下訳は1958年に出版されており、新潮・角川につづく第3訳業になりますが、2004年に改訳されたので、3つの訳のなかで、もっとも新しいものです。
山下訳の良さは、日本語の言い回しに違和感がなく、現代の読者にもなじみやすい訳になっているところです。文章の流れもスムーズで大変読みやすい。各ポイントを見ていきましょう。
5-1 冒頭の印象について
山下訳は、角川文庫・中井訳と同じく、ザムザの名を「グレゴール」、また彼が変身した姿を「毒虫」と訳しています。
グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。(p7)
いっぽうで、文末を「気がついた」とする部分は角川文庫・中井訳と同じですが、山下訳が異なるのは、「夢がつづいて」という箇所です。
この部分について、訳者はあとがきで、原文が複数の「夢」を意味することばが使われていることから、このように訳したと語っています。
つまりザムザは、ひとつの「夢」を見ていたのではなく、不吉な「夢」をつづけて見ていたことになります。つまり夢を見た時間の長さが意識されています。
「ひとつの夢」か、または「複数の夢」か。冒頭の細部からも、訳者のことばの違いが見てとれます。
5-2 人物の印象について
山下訳は、文のリズムや登場人物たちの言い回しなども、違和感のない日本語で訳されています。角川文庫・中井訳の箇所でふれた、ザムザの父のセリフを読み比べてみます。
角川文庫・中井訳
支配人さんがお越しくださってな、おまえがどうして早い朝の汽車で出勤しなかったか、きいてらっしゃるぞ。どうご返事したもんか、わしらにゃわからんでな。(p19)
岩波文庫・山下訳
部長さんがおいで下さって、どうして朝のおまえが朝の列車で発たなかったのかとお訊ねだぞ。私らには、どう申しあげたらよいのかわからん。(p20)
山下訳は、クセのないセリフ回しになっています。ただし、日本語として読みやすい分、角川版のセリフから感じとれる、人物の個性や内面が抑えられているともいえます。
この親しみやすさは、登場人物たちの役職についても同じです。ザムザの職業は、新潮訳では「外交販売員」でしたが、岩波訳では「外まわりの営業マン」と訳されています。
またザムザの雇い主を「社長」、家に押しかけてくる人物を「部長」とするなど、作中の人物たちには肩書きがついてまわります。山下訳のザムザは、会社組織の一員としての立場がひどく意識されているのです。
5-3 文の印象について
読者になじみやすい訳となっている山下訳。格調の高い日本語訳の、新潮文庫・高橋訳と比べると、その違いがより明らかになります。以下に比較してみましょう。
岩波文庫・山下訳
何の罪もない家族全員に見せつける必要があるのだろうか。(p19)
新潮文庫・高橋訳
罪科もない家族全部に告げ知らされなければならないのか。(p18)
新潮文庫・高橋訳に見られる、やや硬い言い回しが、山下訳では、「何の罪もない」や「見せつける」といった、分かりやすいことばで訳されています。
ただし、すべての箇所がそうではありません。以下に引用する場面は、部屋に閉じこもったザムザを心配して、妹がすすり泣きをはじめ、その声を彼が耳にしたくだりです。
岩波文庫・山下訳
さては今しがたベットから起きたばかりで、まだ着がえようともしてなかったんだな。それにしても、いったいなぜ泣くのだろう。グレゴールが起きないし、部長を中へ入れないからだろうか、(p22)
角川文庫・中井訳
なぜ妹のやつは皆のいるところへ行かなかったのだろう。さては、たったいまベットから起きだしたばかりで、まだ着物も着かえていないんだな。だが、どうして妹のやつは泣きだしたんだろう。自分が起きあがらないで、支配人を中へ入れてやらないからかな。(p22)
「グレゴール」の箇所を、新潮文庫・高橋訳は「おれ」と訳しています。この箇所はザムザの独白にもかかわらず、彼が自らを指して「グレゴール」と呼ぶ、ねじれた文章になっています……と、ここまで書いて、念のために、光文社古典新訳文庫の訳文と比較してみました。
光文社古典新訳文庫・丘沢静也訳
なぜ妹はみんなのところに行かないのか。たぶんたったいまベットから起きあがったばかりで、まだ着がえてもいないのだろう。ではなぜ泣いているのか。グレーゴルが起きだしてこず、マネージャーを部屋に入れないからだろうか。(p46)
光文社古典文庫・丘沢訳でも、「グレーゴル」と表記されていました。後続の文章も、グレゴールと連続して表記された事実を考えあわせると、このくだりは、おそらく主人公の内面に寄り添って、語り手が述べる連なりになると、訳者が判断したのでしょう。
ということは、グレゴールと表記されたひとつ前の太字にした箇所から、話者が語り手に切り替わっているように考えられます。
岩波文庫・山下訳では、グレゴールが発することばの語尾にニュアンスがつき、つづけて話者の語りが始まるので、ともすると、この箇所は、ザムザの内面の独白のように読めてしまう、誤解を生みやすい場面になっています。
ともあれ、3つの文庫本のなかで、もっとも新しい訳ということもあり、現代の読者にとっては、大変になじみやすい訳であることは間違いないでしょう。
親しみやすく読みやすい、クセのない日本語で訳されている!
6.まとめ
以上、3つの訳文を見てきました。それぞれの訳の特長をまとめると、つぎのようになります。
・新潮文庫・高橋訳は、都会風のクールな若者を主人公にした、場面の状況が理解しやすく、日本語の格調の高さに特長がある。
・角川文庫・中井訳は、根の優しい若者を主人公にした、人物や場面の雰囲気がより感じられる点に特長がある。
・岩波文庫・山下訳は、3つの訳でもっとも新しく、クセのない親しみやすく読みやすい訳文に特長がある。
いかがでしたか。この記事を参考に、ぜひ好みの文庫本を手にとってください。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました !